『和泉 幻視行』を読む㊾「宿屋町」

先日、久しぶりに自転車で大阪市内へ出ました。
間違いなく今年になって初めてでしたが、昨年も数回程度自転車で行ったぐらいでした。
最近はやはり電車で行くのが習慣化していまして、確かに電車ですと難波へ出るのでも区間急行が泉北高速鉄道も運行されるようになりまして泉北の駅から30分足らずで行けるようになりました。やはり急ぎの時や少し遠くへ行く時は助かるのでした。
ですが、『和泉 幻視行』を読むシリーズで自身の自転車での大阪市内行きコースなどもほぼなぞる様に紹介させていただき、自身の中でも忘れかけていたコースを又辿ってみたいという思いも出て来たのでした。(笑)
それと、記事で書いたことが本当かどうかもチェック(検証)もしとかないといけないなと思ったのもありました。
そして、一応どういうコースで行こうというのは白紙にしておいて出発したのでした。
今回は目指すゴールが大変分かりやすい遠くからでもよく見える“あべのハルカス”あたり(厳密にはもうちょっと左ですが・・・)に向かって只管進めば良いのでした。
JR鳳駅あたりを越えて、少し時間的にも余裕があるかなと思いましたので大鳥大社へお参りしまして(最初は阿部野神社にお参りする予定でしたがそちらは行けませんでした。。。)、『和泉 幻視行』でも紹介された「鳳小栗街道」の交差点までは記事でも書いたとは思いますが、ほぼ定番の行き方でした。そして、今回は運よく?青信号でしたのでそのまま直進し、熊野街道コースで北上したのでした。そこから石津神社のある26号線の高架下の道へ出まして、今回はその26号線の下の広い道を渡るタイミングがなかったのでそのまま真っ直ぐ行き右折れしたのでした。その道をしばらく真っ直ぐ北上し、高砂町あたりで左折しまして26号線や阪堺電車の線路を横断しましてジグザグに進んだのでした。
そして、紀州街道に出ましてほぼ定番のコースに乗ったのでした。
むかしの堺環濠都市には、やはりこれも以前記事で紹介しましたスーパー日之出屋のある橋、五貫屋橋を渡り入ったのでした。
後はただ北上し、さかい利晶の杜をグルッと廻るような感じフェニックス通りに出まして、ほぼ定番の利晶の杜のちょうど入口になる前の信号を渡り、そのまま北上したのでした。
そして、ザビエル公園に着き、ちょっと休息しましてから、記事で紹介しましたほぼその通りの行き方で大和橋まで行ったのでした。
途中、普通に行っていましたら通りませんでしたが、『和泉 幻視行』の前回(「河口慧海像」)、前々回(「鉄砲町」)で紹介されました(=記者が実際通られた)“河口慧海生家跡”や“旧鉄砲鍛冶屋敷”も、折角だから少し迂回して通った次第です。
“慧海生家跡”は記事の通り本当に知らなければそのまま通り過ぎてしまうぐらい住宅と住宅のほんの少しの隙間にひっそりと記念碑みたいなのが建てられてありました。
自転車でしたので尚更ですが、中々じっくりと観光するという雰囲気ではありませんでした。今は本当に住宅地の中にあるという感じでした。
“鍛冶屋敷”の方は、通ればスグそれだと分かるぐらいすごく年代物の建物が鎮座していましたが、ただ通ってその建物を眺める程度で案内板などはあったとは思いますが、ジックリと時間をかけて見れるかは分かりませんでした。(自身はあくまでも通っただけです。)

と、比較的最近記事に書いたところでしたので思わず行って見ようという気になったのでした。

そして、無事大和橋に至る紀州街道の道に再び合流しまして、大和橋を渡ったのでした。

そこからは『和泉 幻視行』の圏外になりますので割愛させていただきますが、只管ランドマークとも言うべき“ハルカス”を旗標にして、(電動)自転車をこいだのでした。(笑)

残念ながら、今回の「宿屋町」編で紹介された小西行長屋敷跡やゆかりの菅原神社の方は通れませんでした。
屋敷跡は大道筋沿いにあり、阪堺線の妙国寺前駅のスグ近くにあるようですので行き易そうですし、分かりやすいとは思います。
自身も知らず知らずその前を通ったことはあったとは思いますが、全く意識には入らなかったと思います。
ですが、菅原神社の方は、「小西行長の手植 傘松の幹」は何気なく見てたかもしれませんが気付きませんでしたが、お参りは何回かしたことがあります。
以前、『和泉 幻視行』で紹介された開口神社もその菅原神社のもうちょっと南にあり、どちらかと言うと開口神社の方が規模が大きいとは思います。今回の自転車行きでは通りませんでしたが、フェニックス通りを山之口筋交差点で渡り、その山之口商店街のアーケードを北上しますと、右手の方にどちらの神社もあるのですが、アーケードを南から北へ行く行き方ですと、開口神社は知らなければ全く気付きませんでした。
しかし、菅原神社は商店街を抜けてアーケードもなくなっていたのもあったかもしれませんが、フト右手に視界に入るような感じで神社に気付くのでした。
気付いてもそのまま通り過ぎる方が多かったとは思いますが、偶に自転車を止めましてお参りしようという気になったのでした。
そのあたり、特に宿屋町あたりが小西行長ゆかりのところとは全然知りませんでしたが、今回行長がキリスト教の洗礼を受け、“幼少の時より都の聖堂に於て教えを受けた”と言うのがのちの人生に大きく影響したかなとは思いました。
良いか悪いかは別にしまして、行長が生きた時代(1558~1600年)は、『和泉 幻視行』前々回の「鉄砲町」の鉄砲もそうですが、キリスト教も伝来(1549年)して間もない頃であります。
行長が恐らく生まれ育った宿屋町近辺には、スグ近くにフランシスコ・ザビエルゆかりの「ザビエル公園」もありまして、薬を扱う商人であったお父様(隆佐)もキリスト教の洗礼を受けられており、と言いますか行長はお父様の影響そのものであったと思いますが、やはり商人としての進取の気性もあり異国からの新しい宗教にも拒絶反応を示すことなく、いち早く洗礼を受けられたのだと思います。それはやはりザビエルはじめ宣教師たち、それにその他の異国の人々とも接する機会も多かったからかもしれません。

以前から、自転車で走っていても何となく体感的に分かりましたが、今回『和泉 幻視行』シリーズで改めて堺の市街地、特に昔の堺環濠都市のあたりを地図で眺めますと、圧倒的に環濠都市の東側の端(=阪神高速道路の高架の左側)の地帯にお寺が沢山あるのであります。
環濠都市が出来て初めからそうであったかは分かりませんが、再三、堺の町は焼失したとのことですが、それでも帯を成すように東側には寺院が密集しているのであります。
現代になって、泉陽高校やその向かいの殿馬場中学校や、その他の小学校なども建てられたとは思いますが、おそらくその建てられる前は寺院だったのではないかと思うぐらいです。

これは壮大なスケールの歴史的推量、考察になりますが、多分この“読むシリーズ”で書くのは収まり切らないと思いますが、堺環濠都市が築かれた目的にも繋がって来ると思うのであります。

最初の目的を書くのが大事だとは思いますが、それはかなりな文の量になりますのでここは関ヶ原の戦い(1600年)だけに絞らせていただきます。

つまり、海からの異国からの風(キリスト教など)を防ぐための防風、防波堤のような役割をその環濠都市東側一帯の寺院群は成していたのではないかという事です。
では何を守るための防風、防波堤だったのかと言いますと、地図を見れば一目瞭然ですが、日本の天皇制そのものの象徴である古墳群であります。
以前の記事でも、仁徳天皇陵をそのまま西へスライドさせたような感じで堺環濠都市が位置していますと書いたことがありましたが、それは偶然そうなったのではなく初めから意図されて築かれたということであります。
ランドマーク的な国の権威を誇示するという側面ももしかしたらあったかもしれませんが、海からの異国の文化の風?が港に入り川をさかのぼり古墳群に侵入されては大変困る訳であります。
それで旧堺港へ注がれていた河川を敢えて南北に分断して濠状にした!と考えられるのであります。(そこから上流の地域では行基菩薩の時代から狭山池をはじめ、たくさんの灌漑の池が造られたので水量の調整をしやすかったというのも大きいとは思います!)
偶々それが濠に囲まれた城のような要塞の役割を果たしたので、以前は戦火が絶えなかったそのあたりの街道でも堺の環濠都市内では守られるという結果になり、そして、黄金時代とも言うべき堺の繁栄のときも迎えたかもしれませんが、一番の目的は古墳群を守る!という事だったのではないかと思います。
現代の地図では跡形もないですが、堺港に注ぐ川として自然な流れで考えますと、むかしはそのまま(南北に分かれないで)真っ直ぐ流れていたと思います。ちょうど堺市役所のあたりも流れ、そして、南海高野線は堺東駅の手前で急にカーブしているのですが、そのカーブする前の流れがそのまま市役所から流れている川の上流になっていたのではないかと思います。
そうしますと、大小路という堺駅と堺東駅を結ぶ堺のメインストリートとも言うべき道がありますが、この道は古代からの竹内街道(日本最古の国道)の始点でもあるのであります。
その街道が大昔は、旧堺港に注ぐ河川に沿うような形で途中まで通っていたかもしれないと思いました。
そうですと、海から簡単に仁徳天皇陵の方まで遡って行けますので、古墳の造営時には役に立ったとは思いますが、古墳を守るという観点ではこれは具合悪いという事を考えられる方がおられて、堺港に注ぐ川の流れを南北に分断したと考えられるのであります。

(最初の目的を)書かないと書いておきながら結局書いてしまっておりますが、その異国の文化の風(キリスト教など)を防ぐ或る意味天下分け目の戦いとなったのが、やはり関ヶ原の戦いだったのではないでしょうか!
東西は徳川方と豊臣方と一般的には解釈して全然いいとは思いますが、もう少し奥の意味を見ますと、東洋文明(仏教など)と西洋文明(キリスト教など)という意味での天下分け目の合戦だったと言えるかもしれません。

仏教は聖武天皇の頃から国の教えに近い形で取り入れられていましたので、仏教の象徴である寺院はやはり国を守る立場で団結されたと、あの堺環濠都市の東側の帯を成している寺院群を見ますとそう思うのであります。
環濠都市のスグ東の外にこれはまだ新しい町名になるかもしれませんが、向陽町と言うところがあります。
これは太陽が昇ってくる方向がその方向ですので単純に日(陽)に向かう町と言えますが、向陽町のもう少し東には反正天皇陵があり、天皇陵(=日)を拝めるという意味での向陽とも解釈出来ます。
堺の環濠都市の特に東側一帯は、(異国の文化の風から)日本の国体を何としても守らんという決然たる意志の表れだったと思うのであります。

結果、1600年という時期がまだ早かった、早急に急激に北風と太陽の話ではありませんが、力づくで或る意味西洋のそれを信じている人たちはそれが唯一絶対の正しいことと言う信念があったかもしれませんが、無理強いするような感じになり反撥を買ってしまい、東洋側の強い結束の力で跳ね返されてしまったと言えるかもしれません。

勝つか負けるかで判断すれば、おそらく東軍(徳川方)につく方が断然有利だと分かっていたと思いますが、行長は敢えて目に見えない(≒不明の)信念、もっと言いますと信仰(キリスト教)の繋がり?で西軍を選んだのではないかとは思います。

或る意味、その当時隆盛を極めた堺の町は、今にその当時の日本の縮図(東洋と西洋の力関係)をそのまま遺されているのではないかなと思いました。


ありがとうございました。


合掌・礼拝
感謝・感動・感激なり!
 黒木 康之

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