宮柱太しく立ち・・・

先日、5月8日の「」の記事で「宮」という言葉で「この大調和の実相の大海原に宮柱太しく立ち」という言葉を思い浮かべたと書きましたが、その『如意宝珠観』の続きとして、「甍(いらか)、高く聳えたり、ここ竜宮城なり、綿津見(わだつみ)の神の宮なり、塩椎(しおつち)の神の宮なり、一切の宝周(あまね)く満ち、一切の調度尽(ことごと)く七宝もて荘厳(しょうごん)せり。」と書かれているのであります。(谷口雅春著『新版 詳説神想観』P.126)
つまり、平城宮の大極殿がその竜宮城を彷彿とさせるものでありました。


2014-05-06-平城宮跡にて-1
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古代の建物がどんなものであったかということは、文献などではある程度は知ることが出来ても現代の情報化時代ならまだしも、谷口雅春先生が『如意宝珠観』を発表された時(少なくとも『詳説神想観』のはしがきを昭和45年に書かれている)は、あまりわからなかったのではないかと思います。
この平城宮跡自体、先に復元された朱雀門でさえ、昭和39年度の発掘調査で初めて確認されて以来、平成10年にようやく竣工しているのでありますし、第一次大極殿も同様に昭和40年から発掘調査が開始されて、平成22年すなわち平城遷都1300年の年にようやく竣工しているのであります。(いずれも文化庁発行の「特別史跡 平城宮跡」の朱雀門・第一次大極殿のそれぞれのリーフレットより)
平城京自体、唐の長安をモデルにして設計され、遣唐使が何度も派遣され唐の政治や文化を取り入れて来たとは思いますが、竜宮城のイメージに極めて近い形で1300年の時を経て、奈良の地に復原されているのであります。
それはもしかしたらそのイメージの源泉は唐の都になってくるのかもしれませんが、1300年の時間と、中国から日本への空間という大きな時空の隔たりを越えて、「今・此処!」(観光している時はその目の前にいましたので・・・)に復原しているのであります。
それはまさに壮大なスケールでの『如意宝珠観』であった訳であります。
確かに朱雀門と第一次大極殿しか殆どない、何もない跡地ではありましたが、本当はそこにすべてがあった(一切の宝周(あまね)く満ち、一切の調度尽(ことごと)く七宝もて荘厳(しょうごん)せり。)のであります。

唐の都を設計されたその当時の設計家の心の中には、すでに神の宮なるもののイメージが、そこからすべてのものが生み出されるという正に竜宮城のイメージがあったのかもしれません。あるいは中国2700?(4000-1300)年(当時)の歴史の中で熟成されたのかもしれません。

何もないところに本当は全てのものがあると分かる(観れる)のが観光の良いところだと思いました!


2014-05-06-平城宮跡にて-2
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そして、何より神想観において、谷口雅春先生はすでにあるその竜宮城の世界をコトバで言い表わされているところが重要だと思います。時空を超えて、時には現象にも顕れたかもしれない竜宮城の世界(中の世界)をブレることなく、しっかりと「宮柱太しく立ち」て観ずること、これが結局すべて(=中心帰一)になるのだと思います。
既にあるものはあるしかない、ないものはない!それが『如意宝珠観』でもあるのであります。

ありがとうございます。


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『宮柱(みやはしら) しっかり立てて 中心を 築く土台の 礎石となりて』

『盤石の 礎(いしずえ)築く 土の中 元の祖仰ぎ 末に繋がる』

『現在は 土の上なり 一点の 盤根錯節 古(いにしえ)の旅』


合掌・礼拝・如意宝珠なり!
潮満(ミ)つの珠なり、汐干(ヒ)るの珠なり。
水と火とのハーモニーなり
感謝・感動・感激なり🎵

 黒木 康之

この記事へのコメント

四季の花
2014年05月22日 22:09
七つ:完成。


中心帰一。

すばらしい。

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