2018年08月14日

平成最後のお盆のお墓参り

一昨日と昨日、久しぶりに以前ちょくちょくお墓参りをしていた道のり(コース)を自転車で辿りました。
ここ数年?はお盆のお墓参りの時は車に同乗させて戴いたり、或いはお盆以外でもお墓参り自体、他の用事で大阪市内(天王寺など)に出た序でに近鉄の大阪阿部野橋駅や南海の天下茶屋駅などから急行に乗ってパパッとお参りすることが多かったのでした。
ここしばらく(数年?)は、お墓参りに行く頻度は以前ほど(ほぼ毎月)は行けなくなっておりました。
ですから、以前自然とマイルートとなっていた石川沿いを通る道のり(コース)は忘れつつあるだろうと思っていたのでした。

ですが、今回少し時間をかけて回って見ようという気持ちの余裕?もありまして、二日がかり(自転車を駅前の駐輪場に泊めて!)で回ったのでした。結果、二日になってしまったというのが正直なところではありますが、以前ちょくちょく通った道も不思議と憶えているもので無意識と言いましょうか、一本の糸を辿るような感覚(パズルのピースを埋めて行くような・・・敢えて具体的に譬えれば、埃(ほこり)に埋もれていたものを拭いて、もとのピカピカの状態に戻すような感じでしょうか???)で巡れたのでした。流石に以前のように電車やバスと、てくてく“歩き”だけで回ろうというのは、この暑さではその気になりませんでして、体力の消耗もまだ少ない電動自転車で回ったのでした。
恐らく電動自転車で(父の墓のある)千代田霊園と(祖父母の墓のある)叡福寺をお参りしたのは初めてだったのではないかと思います。
と、言いますのも、バッテリーが家に着くまでに持つか分からなかったからでした。
ですが、今回はバッテリーの充電器も一緒に携行しましたので、行けるところまで行って見ようと思ったのでした。(今回は道中での充電の必要はありませんでした!どうやって電源のコンセントを使うかは結構いい加減⦅ネットカフェの電源を借りようぐらいの・・・⦆な考えではありましたが。。。)
自身は決して!電動自転車を勧めるつもりではないのですが、以前電動でない自転車でかなりしんどい思いをして行った道のり(コース)もこんなにスイスイ行けるものかとは実感しましたが、やはり電動でない自転車でしんどい思いをして通った道だったからこそ思い出せれたのだろうとも思います。
スピードで言いますと、自身のは電動でない自転車のとあまり変わりませんし、むしろ速度制限装置(スピードリミッター)があるので下り道などでは劣るかもしれません。当然スポーツタイプの本格的なツーリングのための自転車ですと軽く追い抜かれて行きます。
ですが、登りの坂道などではアシスト力がかなり助けてくれますので、目茶苦茶息が切れる程走るという事がなくなりました。
ですから運動と言う観点では、むしろ全くおススメは出来ないのですが、息が切れて周りの景色などもうどうにも目に入らなくなるぐらいしんどくなることはないので、鈍行(各駅停車)の列車で車窓の景色をじっくり楽しみながらゆっくりと廻っているという感じでは走れるのであります。目茶苦茶しんどい思いをして坂道を登り切った時に味わう達成感や充実感、或いは感無量の大感激と言うのでしょうか、そういう劇的な心象風景はもしかしたら(電動でない自転車でないと)味わえないかもしれませんが、緑の自然の中を風を感じながら移ろいゆく景色に感動する、そういった爽やかな大自然の中に少し溶け込んでいるような感覚にはなれるのではないかと思います。


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今回は、一昨日が12日でしたので(その日が命日である)父のお墓だけは何とかお参りしようと思ったのでした。

その後、(母方の祖父母のお墓がある)叡福寺に行くのは時間的に間に合わなくなり諦めたのでした。
そして、近鉄古市駅前の一時利用の出来る駐輪場に自転車を置きまして、駅へと向かったのでした。
すると、阿部野橋行きの急行がうまいこと来てくれまして、それに乗車したのでした。
天王寺に着きますと、少し速足で“てんしば”(昔の天王寺公園)を通りまして、多分“てんしば”になり2回目だったと思いますが、「エライ変わったなあ〜」と内心吃驚しながら(伯父さん伯母さんの眠る)一心寺へ向かったのでした。
駅を出まして通りました“てんしば”の園?内でも一心寺へと道案内するような看板があり、エライ親切だなあと、まるで導いてくれているような感覚にもなりながら、おそらくもう閉門しているだろうと思われる一心寺へ向って“一心”不乱に歩いたのでした。
恐らくお盆という事で閉門時間を通常より少し延ばして下さっていたとは思うのですが、それでも閉門時間の18時少し前に到着したので入場を断られても仕方がなかったのでした。もうすでに門を閉める準備をしておりました。。。
ですが、その門のあたりで立っておられた警備員さんが、まだ中でお参りされている方々もチラホラいらしたので「まだ中にいますから、入ってもいいですよ!」と云うようなことを言って下さり、何とか滑り込みセーフ?で入“場”(或いは“門”でしょうか???)させていただいたのでした。
慌ただしいお参りではありましたが、自身の中では駄目元で行ったのが何とかお参り出来ましたので、その日が祥月命日であった伯父さんと、昨年3月に他界された伯母さんの寛大なお導き(おはからい?)かなあとは思ったことでした。(笑)


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日付が変わりまして、
昨日(13日)は、無事古市駅前から臥龍橋の方へ戻りまして叡福寺のある太子町へと向かったのでした。
そして、叡福寺で母方の祖父母のお墓参りをさせていただきまして、再び臥龍橋へ戻り、そこからは昨日からの延長(進行方向)線上となる北を流れる大和川の方へ向かって自転車をひたすら漕ぎ出したのでした。
臥龍橋からの再出発時、フト空を眺めますと、その臥龍橋付近での空の雲の様子が夏の景色らしく入道雲でしょうか、山の稜線からモクモクと湧き上がっているようで印象に残ったことでした。


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帰りは、上の写真の緑の木々のトンネルのようなところを抜けまして、石川と大和川が合流する柏原市で新大和橋を渡り、そこからは大和川沿いを松原市あたりまでただ西進したのでした。
その道中では何故かは分かりませんでしたが、パトカーや警察車両?がよく通るなあと、何となくピリピリした空気感?、さらには物々しい雰囲気?ではありましたが、お盆休みだし、警察の方もこういう時にも事件・事故が起こらないよう未然に警戒しているのだなあと、或る意味尊敬にも近い畏敬の念さえ感じたことでしたが、夕方高見ノ里駅前の食堂(ラーメン屋さん)で食事をしているときにテレビで初めて警察署からの脱走事件のニュースを知ったのでした。一昨日はその可能性はありませんが、昨日はもしかしたら遭遇していた可能性も何百、何千万分の一でもあったかも知らないので、もう少し早くニュースを知っていれば、もしかしたら(8月15日ほぼ午前零時現在!)未だに見つからない“逃走犯”の発見につながる情報をキャッチ出来たかもしれないなあと思ったことでした。いやむしろそのあたりでは余所者(ヨソモノ)の自身も“ホシ”と(パトカーの中から)目を付けられていたかもしれませんが・・・。(笑+冷や汗。。。)

ありがとうございました。


合掌・礼拝
感謝・感動・感激なり!
 黒木 康之
posted by YASUYUKI123 at 22:59| 大阪 ☁| Comment(0) | 日時計日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月08日

8(ハチ)の結晶 - 米俵

今日は西暦2018年8月8日でありまして、8(ハチ)が三つ揃う日であります。「8(ハチ)の集大成 - 蓮華日宝王地観」(6月4日付記事)の中で、
自身の中では、日宝の"日"の漢字自体、8(ハチ)との脈絡を感じるところ
とは書きましたが、そうであるならば、8(ハチ)が三つですのでまさに今日は8(ハチ)の結“晶”の日であると言えます!(笑)
西暦で言えば、10年前の今日も20年前の今日もそうである訳ですが、自身は、8(ハチ)について5月から6月にかけて沢山書きましたので、今回はその延長線上で偶々点(Ping)と点(Ping)とが繋がった!(=“ピンと来た!”)のでした。

“晶”とは、三省堂の『漢和辞典(第二版)』によりますと、
㊀光。きらめく光。晶光㊁明らか㊂水晶
と、極めて簡略にその意味が書かれてあります。
まあ、木が沢山(三本以上)集まって森となるのと同じで、日が沢山(三つ以上)集まった状態を象徴していると言えますので、ただ“光。”とか、より強調して“きらめく光。”としてしか解説のしようもないのだろうと思うところであります。
しかも、木ですとまだ分かりますが、日(お日さま)はたった一つでも無限の明るさ、絶対的な光として感じますのでそれが二つになるとか三つになるとか言ってもピンと来ないのも無理もないと思います。(補足:数量的な三つではなく、時系列上の繋がりと見れば多少理解出来るかもしれません???)
そういう意味で、木が森になるのとはちょっと違うニュアンスで、エッセンスとも言うべき凝縮されたものの象徴としてのコトバ、つまり結“晶”と言うような意味合いで捉えた方がよく分かるのではないかと思います。
であるならば、この地球上に生えるすべての植物・動物・微生物も、それぞれがまさにその長い食物連鎖などの一つながりの結晶体として、日(お日さま)を起源として存在している訳ですから、すべてが“晶”そのものと言えると思います。
そして、すべての農作物などもそうでありますが、日本の稲作、農耕文化のまさにその中心でありますお米は、米寿(88歳)と言うすごく芽出度いお言葉にもなっておりますが、8(ハチ)で成り立っていると言っても過言ではありません!
そして、そのお米を包装し、出荷・保管・運搬するために用いられた米俵は、三つで積み上げた様子はまさに“晶”そのものと思います。(“品”では少し安定感・重量感がないと言いますか、それぞれの“口”の中が空っぽのようで軽く感じてしまいます。)
今はあまり見かけることもなくなったとは思いますが、米俵は昔の人々(ご先祖様たち)の智慧が凝縮されたものと思います。
その中のお米の一粒一粒にもご先祖様からの智慧とご愛念とが連綿と凝縮されているのであります。
それがまさに8(ハチ)が三つとなる“いのち”の結晶となって、私たちを生かして下さっているのであります!

ただただ“いのち”の結晶に感謝いたします。

ありがとうございます。

ありがとうございます。

ありがとうございます。


『光なり “いのち”の結晶 萬物に 宿りて今も 輝きにけり


合掌・礼拝
感謝・感動・感激なり!
 黒木 康之
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2018年07月30日

母方の祖父母の里を巡る旅?

今日は、ブログ記事を書く気持ちではなかったのですが、久しぶり(数日ぶり?)にマイブログのアクセス解析などを見ました。
実は、旧ブログの方は最近アクセスもほぼ落ち着いた(ゼロの日が続いた)ので、そろそろ潮時かなと思い非公開にしようと思いマイブログを開いたのでした。ですが、新ブログの方で今日のアクセスがすでに100以上ありまして、100以上になるのも久々ですが、ついでに目に付いた「お盆の墓参り」(2年ほど前の記事)を読んだのでした。
それで閃きと言いましょうか、後押しと言いましょうか、今日の記事を書く着想を戴いたのでした。

簡略に書くつもりではありますが、
昨日(奈良へ行くのは)久しぶりに原付バイクで近鉄橿原線の田原本駅まで行って来ました。
と、言いますのも、毎月送らせていただいている「栄える会通信」を大和郡山市にある生長の家の教化部へ持って行かなくてはいけなかったからでした。本来ですと、昨日に2か月に一度ある眞支部というところが開催されている例会がその教化部の近くで行われるところでしたので、その例会の帰りに持参する予定だったのが、土曜日からの台風の影響でその例会が中止(来月に延期)になってしまったのでした。
ですが、その毎月発送している「栄える会通信」などは他にも送るものがありますし、さらに通信費の節約ということで教化部の栄える会事務局から一括して送るという方針であり(そこのところで自身は通信費より交通費を軽く見られている(自腹ですので・・・)というところで、ある意味ボランティア活動に近い気持ちでさせていただいておりますが、大阪から行くことの限界を感じておりまして支部長の役をきりのいいところで返上したいと考えております・・・)、どうしても今月中にでも行かなくてはいけないということであったのでした。
以前、一度大和郡山まで原付バイクで行ったことがありますが、流石に遠かったので、まして台風が通過した後でしたので無理をしないでおこうと今回は思いまして、急行も停車する田原本駅を目指そうと思ったのでした。それですと、電車代としては正味田原本駅と近鉄郡山駅の往復運賃だけで済みますので、例会などがあって行く時はまだしも、ただ通信費の節約のために一度家に持ち帰った書類や封筒を又持って行かなくてはいけませんので、極力交通費は最小限に抑えようと今回は判断したのでした。自身は今、宗教活動やあるいはボランティア活動の難しさをつくづく感じております。確かに寄付や与える行い(奉仕)は尊いものであるとは思いますが、時にそれが当然視され、本末転倒と言えば大袈裟かもしれませんが、なおざりにされてしまう、一回や二回はまあ仕方ないなと思うところでも、当たり前のようにそうなってしまうと、それはちょっと違うんじゃないんですか?と言う気持ちになってしまうこともあります。(“信仰”していると一応公言している)自身が言うのもなんですが、宗教が時に危険視されるのも恐らくそういった感覚(犠牲と言ったら大袈裟ですが、無償の精神を尊重する気持ち)が麻痺してしまう、逆にそれを当たり前に要求されてしまうからかもしれません。時に見返りを求めずにただ与えるというのは素晴らしいことだと思いますが、当たり前に“見返りを求めない”と言うことを求められてしまっていると感じてしまう時、その信仰に疑問を抱くようになるのかもしれません。(と、自身もフラフラふらつきながら何とか“信仰”しているというのが正直なところです。。。あくまでも個人レベルで信じているという程度です。。。)

しかし、今回の田原本駅行きは、母方の祖父母の里(生まれ育った故郷)を巡る旅?でありました。
祖父が北葛城郡広陵町と言うところで、祖母がまさに向かった駅名でもある磯城郡田原本町であったのでした。
今回そういったこともあり、田原本駅を目指したのもありますが、バイクとは言え、その祖父母の原風景を巡れたのは或る意味、祖父母の導きかなとも受け止めた次第です。受け止め方によっては、支部例会が延期になったおかげでそうしようと思ったので、前半部分で色々書いてしまいましたが、今はそれで良かった!とただ感謝するしかないなと思い直しつつあります。
それが祖父母の導きかなと自身が思いましたのも、最近奈良の大先生から久しぶりに直筆のお手紙を戴きまして、“父上の父母、祖父母、母上の父母、祖父母の霊牌”を書きましょうという趣旨の内容でありました。それで今は、自身からですと父方の祖父母、曾祖父母、母方の祖父母、曾祖父母の霊牌を書かせていただいております。それまでは父と(弟か妹となる)流産児の2枚を主に書かせていただいておりましたが、合計14枚になったのでありました。(本日で父のが日記帳に書いている数字で300になったので、きりのいい7月いっぱい書いて父と流産児の分は8月からはお休みしようとは思っています。)
そういった流れで霊牌を書き始めたところでありましたので、やはり目には見えませんが“導き”を感じた次第です。
さらに感じましたのは、二上山を越えるまでの大阪側においても以前母方の祖父母が住まれていたあたりを通り、墓地がある叡福寺の横も通りまして二上山を越えたのでありました。要所要所と言いましょうか、通る先々で祖父母を懐かしく思い出しながら通ったことでした。
時間が許せば、昨日のような行き方も大和郡山などに行く時は使えるなと思った次第です。
又、行ってみたいと思います。(笑)


ありがとうございます。


合掌・礼拝
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 黒木 康之
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2018年07月22日

「ピン(ping)ポン(pong)パン(pang)!」の鳴り響き

3月20日の記事「邂逅の綾(Aya)- 映画『今夜、ロマンス劇場で』を観る」の時と同じような流れで、先日映画『未来のミライ』を観ました。
今回は、TOHOシネマズなんばと言うところで観たのでした。前回のパークスシネマには本当に初めて入ったのですが、今回のTOHOシネマズなんばは、建て替えられてからは初めてでしたが、確か南街シネマと言う名前だった時に(何度か?)入ったことがある映画館でした。
自身にとりましては、子供の時に友達とジャッキー・チェンの映画『ポリス・ストーリー/香港国際警察』を観に行った時以来だったと思います。(笑) ですが、その時の鑑賞券(前売り券)を母に頼んで父に買って来てもらったので大変印象に残っていたのであります。

今回は、その日が封切りだとは知らずにちょうど時間的に良かったので思い切って入ったのですが、最初の方は少し寝てしまったかもしれませんが醒めて?来ますとその映画に見入ってしまったのでした!
恐らく夏休みの子ども向けのアニメ映画にはなるかとは思いますが、(子どもではない自分も)感動しました。
自分にとっては、少し子供の時に感じられなかった妹(や弟)が生まれた後の兄や姉としての微妙な心の内(機微)を本当に上手に表されていたと思います。
子供心に何となく感じていたことを鮮やかに表現されたなあと思いました。
それと自身にとっては、この世に生まれることは出来ませんでしたが、生まれていたら妹か弟かは分かりませんが、今回の主人公の男の子と同じような立場でありましたので、そういう意味で追体験???させて戴けたとも思いました。

あくまでも主観的な感覚ではありますが、父と薫ちゃん(自身の妹か弟)からの「ピン(ping) ポン(pong) パン(pang)!」《解釈は難しいですが“呼び鈴”、“メッセージ”のようなもの・愛念?》が鳴り響いた一日でありました。

ありがとうございました。

『鳴り響く 「ピン(ping) ポン(pong) パン(pang)!」と 澄み切りの 大空のよに 青々となる』

『生き通す いのちの鼓動 なりなりて 木霊(コダマ)となりて ああ 美しき!』

『感動は 今・此処にあり 現成の “あ”(A)ざ“や”(Ya)かなるは 言霊(コトダマ)の響き

合掌・礼拝
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 黒木 康之
posted by YASUYUKI123 at 16:00| 大阪 ☁| Comment(0) | 日時計日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月13日

水に流すな!

先日、生長の家総裁谷口雅宜先生のブログ(唐松模様)で、『「西日本豪雨」をどう考えるか?』(7月9日付)と言う記事が更新されていました。自身も早速拝読致しましたが、その中で「不都合な真実2」のことも書かれてありました。紹介されたリンクを辿りますと、昨年、アメリカの元副大統領、アル・ゴア氏がNHKを訪れ、ロングインタビューに応じた番組の内容のもの(『元副大統領 アル・ゴアの告発 〜“不都合な真実”はいま〜』クローズアップ現代+2017年11月16日(木)放送)でした。
Facebookではすぐシェアさせていただきましたが、ブログ記事では書いておりませんでした。
自身も比較的最近、ネットカフェで偶々「不都合な真実2」を観る機会がありまして地球温暖化の危機を改めて実感したのですが、総裁先生は前作から特に新しい情報がもたらされたという訳ではなかったとは書かれていたと思いますが、もはや異常気象とは言えなくなったと言えるぐらい世界各地で豪雨災害などが頻発している今、やはり世界の“不都合な真実”には目を背けてはいけない状況だと、つくづく思います。

地球温暖化がすでに進んでいる状態で、警鐘を鳴らされている人々は沢山ありますので、私からは声高に叫ぶことも必要ないかもしれませんが、それでも地球温暖化の方向を少しでも抑えるためにも自身が二酸化炭素排出の削減のため努力するのは勿論ですが、こういった“不都合な真実”をちゃんと伝えて行く(自身のブログではあまり広報の役目は果たせないかもしれませんが・・・)ことも大切だと思った次第です。

それで今日は、ブログ記事を書いているところであります。

豪雨災害などが頻発するという異常気象は地球温暖化が大きな要因であると言うのは間違いないですが、では何故温暖化がここまで進んだのかというのは、人間優先(特に経済優先)の考え方に則って進められて来た全ての活動(政策なども含めて)に起因するものであります。

その中で現在の少子化にも繋がりますが、戦後、団塊の世代の方々が多く生まれ、その後これ以上子供が増えたらアカン?ということで出産制限?のようなことが国を挙げて容認されて来たというのも、自身は生まれる前ではありますが少し見聞したことがあります。

それは、すなわち出産前に身籠った御子さんを水に流した(だから“水子”さんというのでしょう!)ということになります。
恐らく、大半の理由が経済的理由、子供が多くなるとお金がかかり過ぎて育てられないかもしれないということだったのではないかと思うのであります。
つまり経済的事情により、命(御子)を流すことを国も容認したのだろうと思います。中国の一人っ子政策のような強制的なものではなかったとは思いますが、已むに已まれぬ事情だったとは思いますが、経済優先の考えのもと、暗黙の了解で水に流された命も数え切れなかったことでしょう。。。

因果応報の理で言えば、これは誰が悪いという個人を特定しているわけではないのですが、人類、もしくは国の業として、豪雨災害として尊い人命が流されてしまったということで顕れているという側面もあるのかもしれません。

時に、「水に流す」というのは過去のイザコザをきれいサッパリ洗い流すということで良い意味で使われる場合が多いとは思いますが、尊い命
(人間だけに限りません!)は決して水に流していけないのであります。

そのためにも地球温暖化の何よりの原因になっております人間中心主義(地球の一部であることを完全に忘れ、人間のために地球があるというエゴイズムだと思います)、つまり人間が王様、オレ様で一番偉いんだ!という感覚を解脱しなければ、物質文明の行く末は遅かれ早かれアトランティスの大陸のように水没してしまうのだと思います。

酸素(О)と酸素(О)を繋ぐ、О(オー)₂(ツー)の生き方、それは零(ゼロ)ではありますが、霊とつながる生き方でありますので、命が芽吹くのであります。それはすなわち霊(=О)的文明であり、決してカ(C)ットしない生き方であります。
C(物質文明の象徴だと思います!)は〇ではないので脆くもヘシャゲテしまいますが、О(霊的文明の象徴だと思います!)は切れない限り弾力性のある輪を保ち続けるのであります。

何とかまあるい地球の輪の中で人間もその一部のサイクル、すなわちロール(役割)として繋がる(結ばれる)ことを願うものであります!

ありがとうございました。

合掌・礼拝
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 黒木 康之
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2018年06月29日

副音声で観戦する。

サッカーW杯(1次リーグ)が、視聴率を軒並み稼いでいると、今日の産経新聞の「週間視聴率ランキングベスト20」(毎週金曜日掲載・今週は18〜24日分・ビデオリサーチ日報調べ)の解説のところで書かれてありました。
確かに関西地区で「日本×コロンビア」の44.1%を筆頭に、29.2%の「日本×セネガル」や、20.2%の「ブラジル×コスタリカ」、16.3%の「ポルトガル×モロッコ」戦と日本以外の試合もベスト20のランキングに入っているのでした。
昨日の「日本×ポーランド」戦は又来週のランキング上位に入るとは思いますが、日本代表が予選通過しましたので、もうしばらくはサッカーW杯から目が離せないというのが日本中の大多数の人々の、勿論私もですが偽らざるところだと思います。(笑)
実は、日本代表が予選通過したからと言いまして、ブログ記事を書こうとは思わなかった(恐らくブログやツイッターやフェイスブックでも沢山書かれていることだろうと思いますので・・・・)のですが、先ほどの「週間視聴率ランキングベスト20」の解説(コラム?)を読みまして、自身も共鳴したので思わず今日は記事を書いたのであります。
解説を書かれた方が確かNHK嫌いだと、つい先日の記事(産経新聞24日朝刊付の「あなたの知らないテレビ」景山教授対談Cの中での景山教授の発言として)で紹介されていたと思います“(豊)”氏こと豊田記者?だと思うのですが、その豊田記者?が「日本×セネガル」戦のNHKのBS1、それも副音声での“試み”を解説(コラム?)で褒められていたのでした!
残念ながら、ランキングベスト20の圏外(基本的にBS波の番組は対象外かもしれませんが???)ではありましたが、実は自身も後半からはその副音声で観戦したのでした。それでほぼその豊田記者?の感想と同じように感じていまして、思わず記事を書こうという気になったと言いましょうか、一言、共鳴したのでした!(笑)
コロンビア戦はNHK総合で(中継が)それしかなかったとは思いますが、その時の岡田元日本代表監督の解説がやはり実際以前監督としてピッチに立たれていた方ですので、限りなく西野監督の今の心情を分かられているというのと、やはり解説が分かりやすいというので良かったと思ったのでした。
決して、セネガル戦の解説の方が良くなかったということではないのですが、1戦目で勝利しましたので、2戦目もNHKでBS1でやっていましたので、験担ぎと言いましょうか(笑)、そちらの方で観戦しておりました。ですが、1点を先制されたのでコリャイカン???というのもあって、読売テレビの方に切り替えまして(笑)、無事同点に追いついたのでした!そのまま後半も読売テレビの方で観ればよかったのかもしれませんが、何となく豊田記者?が書かれていたように“応援風実況”にはちょっと疲れる(深夜と言うのもあったと思います。)と言いましょうか、ピタッと来なかったので、又BS1の方に戻ったのでした。しかし、1点を先制された時に見ていたのがそっちでしたので(まったく因果関係はありませんが・・・)このまま見るのもなあと思いまして、確か試合前に岡田元日本代表監督と大越キャスターが番宣?していた副音声版のことを思い出したのでした。
以前から副音声でスポーツ中継や紅白歌合戦などをちょっとくだけた?感じで裏番組風にやっているのは知っていましたが、国民の注目、いや世界中の人々が関心を寄せている大イベントの中継を副音声で観るのもなあと言うのもありましたが、岡田元日本代表監督にここはかけてみよう(まったく以って何の因果関係はないのですが・・・あくまでも自身の中だけの話です(笑))と言う気持ちになりまして、後半はその副音声で観戦したのでした。
岡田氏の解説(副音声版なので“トーク”でしょうか?)を聞いておりますと、確かに勝てるような気にもなりましたが、途中さらに2点目を入れられた時は、岡田氏もちょっとピンチ???になったなと思いました。が、そのちょっと無言になったりした間が監督の胸の内をそのまま解説してくれているようでもあり、又真剣な試合で申し訳ないところではありましたが、勝てると言われていた直後に点を取られるというあまりの落差に、これがサッカーと言うスポーツの醍醐味でもあるのでしょうが、新喜劇のような笑いを誘うと言うのでしょうか、何となく滑稽に感じられたりもしたのでした。あまり熱を入れて応援している訳ではないからだとは思いますが、そおっと事の成り行きを見守るような感じでそれでいて一つ一つのプレーには一喜一憂しながら2時間ばかりの試合を観戦させてもらったと思います。
そして、日本代表は見事何とか追いつきまして、その試合は引き分けに持ち込むことが出来、昨日はポーランドに負けてしまいましたが、無事決勝トーナメントに進むことが出来たのでした。

次のベルギー戦も出来れば、岡田氏の解説で更には、セネガル戦のような副音声版で観戦出来ればいいなあとは思います。

ありがとうございました。


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Googleフォト「2018-06-26-のぼり調子にて-1」へ


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Googleフォト「2018-06-26-のぼり調子にて-2」へ


先日入ったお店で、偶々岡田元日本代表監督の写真とサインが飾られてあり、撮影した次第です。(笑)



合掌・礼拝
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 黒木 康之
posted by YASUYUKI123 at 15:55| 大阪 ☁| Comment(0) | 日時計日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月11日

お経を上げる9(『銀河鉄道999』を聴きながら・・・)

先日(6月7日)、ついにマーカーで色付けしていました“999”巻のマス目も埋まりました。
今回は、そのまま“1000”巻目のマスも埋まったのでした。
今までは1000巻目は最後の節目という事で、ひと通りのお経を読みまして、特別な“1”巻として所謂(イワユル)達成感みたいなものを味わっていたのですが、その後しばらくはその「聖経千巻読誦表」に記録するという形ではしなくなったのでした。前回は記事でも書きましたが、平成25年5月5日に終わったのですが、今回決意して又始めましたのが、平成28年1月1日でしたので約2年半の空白があったのでした。
それこそ今回、表が埋まるのに約2年半の歳月がかかった訳ですが、それと同じぐらい“お休み?”していたとも言えます。
かと言いまして、全くお経を読まなかったと言いますと偶には読む時もあったと思います。
ですがやはり、「聖経千巻読誦表」に記録するという事になりますとちょっと決意と言いましょうか、覚悟みたいなものも要りまして、またその「読誦表」をもらいに宇治の生長の家別格本山の書店へ行かなければいけないのですが、中々行く機会もなかったというのもありました。
そういったこともあり、今回はある程度ゴール(999巻)が見えて来ました頃に、宇治へ行ったのでした。
5月の25日だったのですが、その日は大和郡山市にある生長の家の奈良県教化部へ栄える会の祝福祈願の当番で行きまして、最初は(宇治へ)行けたら行こうぐらいの気持ちだったのですが、ちょっと一悶着?ありまして、宇治へ行く決意が固まったのでした。。。
宇治(別格本山)には幽祭殿と言う神想観や写経を行えるところがありまして、自身は神想観をしに行こうと思ったのでした。
そこで今後のことなども神意を自分自身の中から聴けるようにとの思いであったのでした。
思わぬ形で宇治へ行くよう突き動かされたとも言えますが、流石に「聖経千巻読誦表」を置いて下さっている宇治へ行きましたので、その「読誦表」も思い切って一枚戴いたのでした。(その戴いた“瞬間”は、ちょっとためらいつつも数年を要するつもりで改めて覚悟・決意した次第でした!(笑))
自身の中では、それをやるという事は今までの経験則で数年を要しますので、それをやるまでの決意と言うのが言葉では言いにくいですが、結構要るのでした。それがあってもなくても本当は“お経”を上げることそのことが善い行いだとは思いますし、何巻誦げたとかではなく、真心こめて一巻一巻を読ませて戴くことが尊いことだと思います。
ですが「読誦表」で記録して行きますと、最初はゴールが遠すぎてあまり熱が入らない(自身の今までの経験では!)のですが、ゴールや節目がちょっと見えて来ますと、むしろその数を目指して頑張って???読んでしまう時もあり、結果、何もない時よりもよく読めるという事も確かにありました。又、今は先祖供養祭や祝福祈願の当番などの時には必然的に読みますので、その分も「読誦表」のマス目に埋めさせていただくことで(千巻への)励みになる場合もありました。
兎に角どれを以って良いかと言うのは自身でもよく分かっておりませんが、「聖経千巻読誦表」を宇治から貰って帰ったという事は、「母を訪ねて3千里」ではありませんが、遥か遠い旅路の出発点に立ったような感覚ではあります。(笑)

今回は、ブランク(記録上のお休み?)を作ることなく、連続して再び“聖経千巻読誦”(行?)を始めた次第です。

敢えて“999(スリーナイン)”のことを書かせていただきますと、今回はそのまま通り過ぎて行ってしまった訳ですが、『銀河鉄道999』のようにどこまでも続くという、連続する意味合いがあるのではないかと思います???
ゴダイゴの『銀河鉄道999』の歌の感じそのものだと思いますが、その曲は、鉄道番組であるNHKの『鉄オタ選手権』でもよく流れていたと思いますが、何となくワクワクするような気持ちになります。
さらに「線路は続くよ〜どこまでも〜」と言う歌詞がある歌もありますが、やはり銀河鉄道999のイメージ(印象)がどうしても強いですが、“999”には、eternal(永遠の・不滅の)への憧れが込められていると思います。

自身の中では、今回の「聖経千巻読誦表」が手元にあるのでは7枚目になります。
(一枚目「自 平成9年9月23日 至 平成10年8月29日」。二枚目「自 平成10年8月30日 至 平成14年12月12日」。三枚目「自 平成15年1月1日 至 平成17年12月31日」。四枚目「自 平成18年1月1日 至 平成21年3月21日」。五枚目「自 平成21年11月7日 至 平成25年5月5日」。六枚目「自 平成28年1月1日 至 平成30年6月7日」。と現物で確認しました!)

満願と言うのであれば、語呂では“万”巻を目指すべきでしょうが、あまりにも遠すぎますので、やはり“7”が完成(ななつ)とも言われますので、自身の中での完成、すなわち達成とすべく次回この「お経を上げる」シリーズ10で書けますよう、今はただ「聖経千巻読誦表」のマス目への埋め書き(日付以外は、手書きの“ニコニコマーク「😊」”です!)を連続して新たに再出発したところであります。😄

ありがとうございました。


『コツコツと あげる気持ちが 繋がりて 9(キュウ)9(キュウ)9(キュウ)と エターナル(eternal)なり


『言の葉の 一葉(イチヨウ)一葉(イチヨウ) 波に乗り 鮮やかに舞ふ 天使の笑顔 


『只管に 眞心込めて 禱りなり いのち咲きはえ 無礙の光明



合掌・礼拝
感謝・感動・感激なり!
 黒木 康之
posted by YASUYUKI123 at 16:18| 大阪 ☔| Comment(0) | 日時計日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月06日

8(ハチ)の8(ハチ)乗

先日の「蓮華日宝王地観」から自身は、8×8(厳密にはもう一つ“×8”ですが、今回はタイトルの都合上省きました。)という事が閃いたのでした!
つまり“×(掛ける)”は乗法ですが、蓮華の花の中心座(ハチス)からハナビラが八方に展開している姿は、8(ハチ)が八方に展開しているとも言えますので、8×8になるかなと思ったのでした。
更に「蓮華日宝王地観」では、(今五官の世界を去って)吾が身を観ずるのですが、吾が身をこのまま観世音菩薩と観じまして、虚空中に「宇宙大の大日輪」が浮かんでいる光景を心に思い浮かべつつ、蓮華の台座の上に坐したまう観世音菩薩として観想するのであります。
詳細は、『詳説神想観』のご著書をご覧いただけたらと思いますが、観世音菩薩として吾が身を観じながら蓮華の台座の上に坐しますので、それは乗っていると言っても間違いではないと思いました。何に乗っているかといいますと、それはやはり如来の願船と言いましょうか、仏教では大乗や小乗とも言いますが、救いの小舟(自身の解釈では救いの波動の流れと言う方が今風かなとは思います???)に乗っているという事になると思います。キリスト教(旧約聖書でしょうか)でもノアの方舟に乗るという考えがあると思いますので共通する眞理になるとも思います。
その“乗る”と言うコトバで考えますと、現代人には数学の乗法、つまり掛け算(×)のイメージがピッタリ来ると思うのですが、交響楽でもそうですが、波の動きと言うのは、共鳴し楽器などの調子が全体とうまく合わさる(響き合う・調和する・ハーモニーする⦅略して“ハモる”?⦆)ことで相乗効果が生まれ、倍々的に大きく鳴り響くものだと思います。それが算数で言う掛け算ではないかと思いますが、やはり(光の)波動の流れに乗るという事が神想観や瞑想、それに祈りや祈祷などの一番の目的になろうかと思います。
そして、「蓮華日宝王地観」におきましては、吾が身を観世音菩薩であると観ずるのですが、その観世音菩薩はいわゆる三十三身に身を変ずる観自在の原理の象徴でもあります。しかも世の中の音の響きを観じてその音の通りに現われ給いますので、まさに耳の象徴でもあると思います。
耳はその読みもそうですが、“3”を表しますが、三十三身と言うのは、自身は左右両耳を表しているのではないかと思います。つまり右耳(3)と左耳(3)と+(プラス)して観世音菩薩の(一示現としての)全相になるという事です。それが結局“8(ハチ)”になる訳です!
つまり(難聴の方には申し訳ありません・・・あくまでも比喩的に解釈していただければと思います!)右左どちらの音もよく聴きなさい、右耳だけ聞いて、左耳は聞かないという事では観世音菩薩ではないという事だとも思うのであります。右耳と左耳がバランスよく合(“十”のプラスであり和)してこそ、八面玲瓏、珠のような観世音菩薩になり、それはすなわち“8(ハチ)”であるということであります。
つまり、ハチ(8)スの上に坐(乗)す、8ですので、今日のタイトルである“8(ハチ)の8(ハチ)乗”になる訳であります。
それは電卓で計算しますと、数字としては“16,777,216”となるようですが、自身の中ではその数字に特に意味はないと思っておりました。
ただ相乗効果で大きく鳴り響くという事で数字も大きくなるというぐらいのニュアンスだったのですが、ネットで「8の8乗」を検索しますと、その答えもスグ検索出来ましたが、コンピューター(パソコン)の世界でも8の倍数(累乗)がキリが良いとのことでした。(NTTPCコミュニケーションズ ホームの「用語解説辞典」のホームページより)
厳密には、2の累乗になりますが、コンピューターの世界は2進法になりますのでその倍数が基準になるとのことでした。
特に、2の8乗となる「256(にごろ)」は一番キリが良いとのことです。と言うのも、2進法の8桁(2の8乗にあたる)を8ビットといい、これが1バイトという基本的な単位になっているからとのことでした。
思わぬところでの“8(ハチ)”つながりでありますが、このブログ記事も(ノート)パソコンで書かせて戴いているので、その内部では“8(ハチ)”が(ビットとして)忙しく“かけ(×)”めぐっていることでしょう!
因みに先ほどの“16,777,216”も、パソコンの世界では24bit(ビット)カラーが16777216 色であるという事のようです。(YAHOO!JAPANの知恵袋「8の8乗の計算方法を教えて下さい。」より)

まさか、仏教(宗教)のことからパソコンの世界へ繋がるとは自身も全く思いもよりませんでしたが、(仏教発祥の)インドでは計算能力が高い方が多く、コンピューターのプログラマーなどとして世界中で活躍していると聞いたことがありますが、もしかしたらその“8(ハチ)”と言う数字で根っこが繋がっているのかもしれません。(笑)


ありがとうございました。


合掌・礼拝
感謝・感動・感激なり!
 黒木 康之
posted by YASUYUKI123 at 16:16| 大阪 ☔| Comment(0) | 日時計日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする